行き先を知らない川と私の45年—Bruce Springsteenと共に走る人生

熊のキャラクター化によるオマージュイラスト。ブルース・スプリングスティーンへのリスペクトを込めて。
目次

第一章:Bruceとの衝撃の出会い

兄の部屋に、2枚組のアルバムがあった。

茶色がかったジャケットに写る男の横顔。タイトルは「The River」。Bruce Springsteen。当時中学生だった私は、その名前すら知らなかった。

何気なくレコードプレーヤーに乗せ、針を落とした。

その瞬間、体中に衝撃が走った。

「The Ties That Bind」のイントロが鳴り響く。E Street Bandの圧倒的なサウンド。Springsteenの叫ぶような歌声。

TBSのザ・ベストテンで歌謡曲に慣れ親しんでいた中学生にとって、これは別次元の音楽だった。世界が一気に広がった気がした。

それから学校から帰ってくると、私は兄の部屋に入り込み、ヘッドホンをつけて大音量でThe Riverを聴いた。何度も何度も。A面からD面まで、飽きることなく。

「Hungry Heart」の軽快なロックンロール。「The River」の切ないバラード。「Cadillac Ranch」の疾走感。そして「Wreck on the Highway」の静かな絶望。

2枚組のアルバムは、まるで一つの長い物語のようだった。そして私は、その物語の中に完全に入り込んでいた。

第二章:ネブラスカとBorn in the U.S.A.のはざまで

ほどなくして、兄が新しいアルバムを買ってきた。

「Nebraska」—1982年の新作だ。

The Riverであれだけの衝撃を受けた私は、期待に胸を膨らませてレコードの針を落とした。

静かなアコースティックギター。ハーモニカ。そして、一人の男の呟くような歌声。

…思ってたんと違う!

E Street Bandの爆発的なサウンドを期待していた私は、面食らった。これは何だ?デモテープか?

でも、聴き続けるうちに、このアルバムの持つ異様な緊張感に引き込まれていった。「Nebraska」の連続殺人犯の独白。「Atlantic City」の絶望的な賭け。「Highway Patrolman」の兄弟の物語。

The Riverとはまったく違う。でも、これもまたSpringsteenだった。

そこから私は遡り始めた。兄のコレクション、そして自分でも買い集めた。

Born to Run(明日なき暴走)—疾走する若者たちの叫び。
Darkness on the Edge of Town(闇にほえる街)—闇に吠える怒り。
Greetings from Asbury Park, N.J.(アズベリー・パークからの挨拶)—若き日の野心。
The Wild, the Innocent & the E Street Shuffle(青春の叫び)—混沌とした詩的な世界。

1984年に「Born in the U.S.A.」がリリースされるまでの間、私はこれらのアルバムを聴き倒した。

第三章:聴き倒した日々

レコード屋に通った。

新譜が出るたびに、発売日に買いに走った。そして、お小遣いを貯めては、ブートレッグのライブ盤も手に入れた。海賊版だと分かっていたが、どうしても聴きたかった。公式では聴けないライブの熱狂が、そこにはあった。

ある日、音楽雑誌で読んだ。

「Bruce Springsteenは、ブートレッグを買わないでほしいと言っている」

心が痛んだ。捨ててしまおうかとも思った。でも、結局捨てられなかった。あのライブの熱狂を、もう手放すことはできなかった。


【コラム:Springsteenファンあるある】

大学時代、ラグビー部の仲間12人で3台の車で旅行に行った。

もちろん私の車では、ずっとSpringsteenを流していた。Born to Run、Thunder Road、Badlands…

サービスエリアで休憩していると、私の車に乗っていた女子マネが言った。

「他の人の車に乗りたい」

え?乗り心地悪かった?

「ずっと同じ人の曲ばっかりで、もう嫌になった」

…確かに。

でも、これだけは譲れなかったんだ。今思えば、あの女子マネには申し訳なかった。でも当時の私にとって、Springsteenは「聴かせたい」のではなく「共有したい」音楽だった。

あれから40年、その旅行の話になると観光地ではなく、このエピソードで盛り上がる。


第四章:1985年、失意とライブと

大学受験に失敗した。

失意のどん底にいた。浪人という選択肢は、自分の中で考えることができなかった。どうすればいいのか分からなかった。

ただ一つ、確かなことがあった。

Springsteenの4月の大阪公演を見届けるまでは、大阪を離れられない。

ある日、私は書き置きを残し、数万円を握りしめて家を出た。

行く先は決まっていた。ウドー音楽事務所の窓口。チケットを買うために並ぶ。何時間でも並ぶ。絶対にチケットを手に入れる。

列に並んで待っていると、誰かが肩を叩いた。

振り向くと、兄貴が立っていた。

「お前のことやから、絶対ここに来ると思ってた」

腕をつかまれた。でも、兄貴は怒っていなかった。むしろ、少し笑っていた。

「チケット、買ってから帰るぞ」

一緒に並び、チケットを購入した。そして、家に連れ戻された。


1985年4月、大阪城ホール。

Bruce Springsteen & The E Street Band、初来日公演。

2日連続で行った。

1日目: Twist & Shout、デトロイトメドレーで締める。会場は熱狂の渦。全員が立ち上がり、叫び、踊った。

2日目: Elvis PresleyのCan’t Help Falling in Loveで締める。対照的にしっとりと、感動的なエンディング。

E Street Band全盛期。Clarence Clemonsのサックスが響き渡る。Roy Bittanのピアノ、Max Weinbergのドラム、Steven Van Zandtのギター。

そしてSpringsteenは、ステージ上を走り回り、汗を飛ばし、観客と一体になった。

あの失意は、この2日間で吹き飛んだ。

いや、正確には違う。失意は消えなかった。でも、生きる力をもらった

「まだやれる」

そう思えた。


それから私は浪人し、大学に入った。

そしてラグビー部に入部した。身体を動かし、仲間と汗を流し、青春を謳歌した。

そして数年後、12人で3台の車で旅行に行ったときに女子マネに呆れられて40年。


第五章:都銀から下町四畳半の世界へ

1990年、私は都市銀行に入行した。

安定した収入、社会的な地位、将来の保証—いわゆる「エリートコース」というやつだ。周囲は羨ましがった。親も喜んだ。

でも、2年で辞めた。

理由は一つではない。会社組織というものに合わなかった。判を押したような毎日。金曜日の夜を待ちわびる日々。同僚のように前向きに時間を使えなかった。

辞めた後、私は四畳半のアパートで暮らしながら、テレビの制作会社のADのバイトをしていた。

不安定な生活。先の見えない日々。でも不思議と、後悔はなかった。

四畳半の部屋で、私はまたSpringsteenを聴いた。

「The River」の主人公は、工場で働きながら夢を諦めていく。私は都銀を辞めて、夢を追っているのか、それとも逃げているだけなのか。

答えは分からなかった。

でも、少なくとも「行き先を知らない川」を流れている実感はあった。

第六章:銭湯の奇跡と原稿用紙

ある日、いつものように銭湯に行った。

四畳半にはシャワーもない。だから週に何度か、近所の銭湯に通っていた。

風呂から上がり、脱衣所で身体を拭いていると、雑誌が目に入った。

「ヤングジャンプ」

何気なくページをめくる。マイケル・ジャクソンの読者レポート記事があった。へえ、こんな企画やってるんだ。

そして、記事の文末に小さく書かれていた。

「次回はブルース・スプリングスティーン ニュージャージーライブ 読者レポーター募集」

心臓が跳ねた。

Springsteen。ニュージャージー。読者レポーター。

風呂屋のおばちゃんに頼んだ。

「すみません、このページだけ切り取っていいですか?」

おばちゃんは笑いながら、はさみでページを切り取ってくれた。

家に帰る途中、文房具屋に寄った。原稿用紙を買った。

四畳半に戻ると、机に向かった。

その日のうちに、思いのたけを綴った原稿を書き上げ、集英社に送った。

第七章:公衆電話からの電話

それから数週間後。

ADのバイトから帰ってくると、四畳半の部屋に電話の着信音が響いていた。

狭い部屋だから、音が妙に大きく聞こえる。

受話器を取る。

「もしもし」

「集英社の〇〇ですが…」

心臓が止まりそうになった。

でも、声が聞き取りにくい。もぐもぐと何か言っている。こういう時に限って電話の調子が悪い。ブツリ、ブツリと途切れる会話。

「すみません、公衆電話から掛け直します。電話番号教えてください」

慌てて電話番号をメモし、受話器を置いた。

公衆電話に向かって走った。

硬貨を入れ、番号を押す。指が震えていた。

「お待ちしていました」

編集者の声が、今度ははっきりと聞こえた。

「最終選考に2人残ったんです。1人は横浜国立大学の学生で、トンネル・オブ・ラブからのファンで文章もとてもうまかったです」

心が沈む。ああ、落ちたのか。

「でも、あなたは今働いてますよね。1週間、アメリカに行けますか?」

え?

「もちろん行きます。行きます!」

2つ返事だった。

「他にもミュージシャンの方やバンドをやってる方の応募もたくさん読みましたが、あなたの原稿が一番思いが伝わりました」

公衆電話のボックスの中で、私は一人、笑顔になっていた。

第八章:ケアンズとニュージャージー

すぐに、神戸に住んでいる彼女に電話した。

当時、遠距離恋愛中だった。

「聞いて!ただでニューヨークとニュージャージーに行ってくる!Springsteenのライブやで!」

興奮しながら報告すると、彼女は言った。

「へえ、いいやん。私もオーストラリア観光協会のイベント行ったら、ケアンズの旅が当たったから行ってくるわ」

…え?

1993年、私たちはお互い、別々の大陸へ旅立った。

私はニュージャージーへ。彼女はケアンズへ。

今思えば、お似合いのカップルだったのかもしれない。

第九章:四畳半から、ニュージャージーへ

ニュージャージーへの旅は、夢のようだった。

編集者、カメラマン、コーディネーター、そしてもう1人の読者レポーター(横浜国大の学生)—日本から来たのは、私たちたった5人だけだった。

ライブ会場に入ると、熱狂があった。でも、何かが違った。

E Street Bandがいなかった。

Clarence Clemonsの姿がない。あの伝説的なサックスが聞けない。新しいバンド編成。女性のサックス奏者。

これは、「Human Touch / Lucky Town Tour」—Springsteenの転換期だった。

少し寂しかった。でも、それでもそこはニュージャージーだった。Springsteenのホームタウン。彼が育ち、彼が歌い続けてきた場所。

ステージ上のSpringsteenは、変わらず全力だった。

汗を流し、叫び、走り回る。観客と一体になる。音楽に身を捧げる。

ああ、これがSpringsteenなんだ。

E Street Bandがいてもいなくても、変わらないものがある。それは、彼の音楽に対する姿勢だった。

四畳半から、ニュージャージーへ。

The Riverで聴いた「行き先を知らない川」を、私は実際に旅していた。


【コラム:母親の誤解】

ニュージャージーから帰国後、掲載された週刊ヤングジャンプを持って実家に帰った。

「見て!載ったで!」

母親は雑誌の表紙を見るなり、顔をしかめた。

「そんなものは見ません!」

…ヤンジャンの表紙のグラビア水着を見て、エロ雑誌だと思ったらしい。

当時を知ってる人なら分かる。ヤンジャンといえば漫画雑誌、表紙はグラビア水着が当たり前。でも母親にとっては、そんな事情は関係ない。

四畳半で生活に苦しむ息子が、エロ雑誌に掲載。

状況的には、クロである。


エピローグ:45年後

あれから32年が経った。

1993年のニュージャージーから2025年の今日まで。そして、1980年のThe Riverとの出会いから数えれば、45年になる。

四畳半はもう遠い過去だ。ADのバイトも、公衆電話も、銭湯のヤングジャンプも。

でも、あの衝撃は今も残っている。

兄の部屋で、初めてThe Riverの針を落とした瞬間。体中を駆け抜けた電撃のような感覚。

あれが、私の人生を変えた。

Springsteenは歌い続けた。時代は変わり、バンドメンバーも変わり、音楽性も変化した。でも彼は止まらなかった。

そして私も、聴き続けた。

中学生の部屋から、大学の車の中から、四畳半の部屋から、ニュージャージーの会場から、そして今。

45年間、川は流れ続けた。

行き先を知らない川。時に枯れそうになる川。でも、流れ続ける川。

The Riverは、私の人生そのものだった。


あとがき

このブログ「明日への巡航(borntorun.jp)」では、Bruce Springsteenの音楽を、独自の視点で分析していきます。

45年の時代の変化を見届けてきた目線から。
1985年の大阪公演、1993年のニュージャージーライブを体験した記憶から。
そして、「行き先を知らない川」を自ら旅してきた人生から。

Springsteenが描いた世界と、私たちが生きる現代を、一緒に探求していきましょう。

川は、まだ流れています。


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Bruce Springsteen “The River” (1980)

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