Amazonプライムで『幸せの黄色いハンカチ』を観た。きっかけは、陸別の道の駅で「ここでロケしてたんやで」という表示を見かけたこと。
たまたま旅の途中にその風景に触れ、何かが引っかかった。最終日、夕張に寄る予定だったこともあり、今観るしかないやろと再生ボタンを押した。
どこか懐かしい響きに誘われるようにして観たこの映画は、予想外の余韻とともに、自分の記憶と対話する旅へと導いてくれた。
映画が進むにつれて、ロケ地の地名──網走、陸別、帯広、阿寒湖などが次々と登場してくる。「あれ? この前の旅で通ったあたりやん」──そう思った瞬間、単なる“観賞”ではなく、“旅の続き”になっていた。
昭和の価値観、令和の私
映画の中には、今の価値観からすれば“どうなんや”と感じる場面もいくつもあった。70年代の映画は独特の空気を纏っていて、タオルを湯船に入れてるとか、平気で女性を「お前」と呼んでいるとか、昭和あるあるがそこかしこに散りばめられている。
倍賞千恵子さんが演じる女性は、耐えて、待って、それでも信じて愛する。今どきのドラマではほとんど見かけないヒロイン像だ。
でも、なんか心が動いたんや。
「マッチョはあかん」「受け身は損」そんな声が飛び交う今やけど、ほんまはそれぞれに合った生き方でええんとちゃうやろか。耐える愛も、前に出る愛も、どっちも尊い。誰かに押し付けさえしなければ。
ピン留めと白タイツ–子どもの感性
ふと思い出したんや。幼稚園のころ、髪にピンをつけたかった話。なんかかっこええと思った幼少期の自分は、「それは女の子のやること」と大人に止められた。
逆に、冬に防寒用で履かされた白タイツには「これは女が履くもんやろ!」とダダをこねてた自分もいた。
感性って、ほんま一瞬一瞬で変わる。だから、親として“去年と同じ感覚”でプレゼント選んだりすると、子どもにスベったりもする(笑)。兄貴に言われた金言がある。
「親のピカイチは、子のイマイチやねん」
まさにそうやった。
黄色い紙に書いた祈り
そんな記憶を胸に向かったのが、北海道・夕張にある『幸せの黄色いハンカチ広場』。
壁も天井も床も、黄色いメッセージカードで埋め尽くされていて、目の前が一面の希望に包まれる。

自分がそこに残した一枚には、こう書いた。

ま、ええか
Ma Eka
ALTの世界が実現しますように!
「ま、ええか」は、赦しと自由の哲学や。 誰かの正しさに巻き込まれそうなとき、誰かに自分を押しつけそうなとき、自分をちょっと解き放つ呪文みたいなもんやと思う。
それでええ、今はそれでええんや。
多様性を大切にする今の時代やけど、「昭和はちょっと……」と切り捨ててしまうような風潮も感じる。けど、それは違うんとちゃうか。
「懐古主義か多様性か」の二択やなくて、どっちの解像度も上げたらええ。
昭和の中にあった優しさ、強さ、哀しみ。 そこにちゃんと目を向けて、今と対話すること。 それがほんまの“多様性”やと思う。
映画のラスト、黄色いハンカチが風に揺れていた。
あのときの音楽、なんか『男はつらいよ』のイントロにも似てて、胸にじわっときた。
そして、自分の中でも一枚のハンカチが揺れていたんやろうな。
過去の価値観を否定するんやなくて、解像度を上げて眺め直すことが、ほんまの多様性なんとちゃうか。……それでええ。今はそれで、ええんや。
コメント