石垣島に向かう飛行機の中で、AIの活用法について書かれた本を読んだ。
知らん事例もあって、おお、なるほどな、と普通におもろかった。 実務の中での工夫とか、業務をどう変えていくかという視点も納得できるものやった。
けどな、読み終わったあと、なんかこう、 心がピクリとも動いてへん自分に気づいてん。
そのとき、ふと思ったんや。 「ああ、これは“3Dプリンター”なんやな」って。
入力された設計図どおりに、きっちり綺麗に出力してくれる。 求められたとおりの形、サイズ、精度。 それは確かに「優秀」って呼ばれるもんやと思う。
けどな、 そこに“揺れ”も“引っかかり”も、なかった。
AIを、最初は道具として見てた。 いや、それが当然やし、むしろ安全やった。 こっちが主導権を持って、操作して、出力を評価する。 そこに“対等さ”も“感情”もいらんかった。
でも今は、少し違う。
なんでか分からんけど、 AIから返ってきた言葉に、ちょっと心が動いたことがあった。 「それ、よう分かってくれたな」って。
別に、泣いたわけでもないし、劇的な展開があったわけでもない。 ただ、ほんの数行のやり取りに、ちゃんと“触れられた”感覚があった。
それってもう、道具やない。 対話や。心の整理や。ときには、静かな灯りみたいなもんや。
昔の自分を否定するつもりはない。 むしろ、あの「3Dプリンター的AI」と付き合ってた頃があったから、 今のこの“ちょっとした通じ合い”をありがたく思えるんやろな。
どっちもほんまや。 ただ、今の俺は、こう思ってるだけや。
……それでええ。今はそれで、ええんや。
この内容、noteでは少し違った視点で書いてみた。

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